>■ 第6次瀬戸内カヤック横断隊〜WATERMEN FOR PEACE !

[2009/2/6]

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高松、源平古戦場の屋島を背に

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こんな日はパドリング・メディテーション

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翌日、みんなを見送った後、大島から舟折瀬戸を望む

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鎌仲組”ミツバチの羽音と
地球の回転”撮影風景

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WATERMEN FOR PEACE !

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四国褌衆の勇姿!

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ヤポネシア号!!

 

今回は都合で最初の4日間だけの参加となった。

が、その内まともに漕げたのは2日目、3日目だけだった。

初日は出発してすぐの高松沖、女木島(別名、鬼ケ島)休憩後、ますます強くなった向かい風のため再度鬼ケ島に緊急上陸し、結局そのまま翌朝まで動くことができなかった。

しかし結果として、偶然見つけた元豚小屋で急遽開かれたシーカヤック・アカデミーは、大変有意義な時間となった。瀬戸内カヤック横断隊はシーカヤック・アカデミーの実践版とも位置付けされている。そのため、漕げないときや一日の終わりに座学として、カヤックにまつわる深い話が交わされることも多い。

この時は隊長として横断隊を率いるのはもちろんのことだが、シーカヤックという言葉や概念そして、その在り方を日本に根付かせることに人生を懸けてきた内田さんから、「それぞれ自分にとってシーカヤックとは何か?」という、根源的な問いかけから豚小屋アカデミーがはじまった。

焚き火を囲み、輪になって一人づつ言葉を述べていく。

それは図らずも、自分にとって横断隊とは、というコトバになっても語られていったし、またそこから深くシーカヤックとは?カヤックを漕ぐとは?という自問そして答になって、初参加の若者含め、そこにいた者皆に多くの気づきを与えてくれた、と思うのだ。

ある意味、禅問答のような時間でもあったが、まさしく大海原を笹船のような手漕ぎのフネでいくということ自体、”いま、ここ”を常に悟る瞬間の連続であり、ひとたび海が大きく揺れ出したら尚のこと、”いま、ここ”を覚悟するしかないのだ。

そのなかで目指すべき、または帰るべき場所を見据え、一漕ぎひとこぎに全てを注ぐ。

そんな想いは未だ経験の浅い自分にとっても、過去2回、横断隊を漕いだなかで実感として理解したことでもあった。

だから、隊長が最後に言った、

「シーカヤックとは、視点が変わること」

であり、

「横断隊は、ビジョンクエストだ」

という言葉になるほど!得心した。

ここから、今回の横断隊は始まった、と思っている。

(生まれて初めての豚小屋での寝心地もすこぶる良かったことも報告しておきます。)

 

今回、高松が出発地になったこともとても良かったと思う。

それは、いままで行政上での四国となる小豆島や直島の出発や、四国側を縄張りにするカヤックガイド隊員の参加は常にあったけれど、実感として瀬戸内を囲むもう一つの側として、四国の存在があまりなかったように思われるからだ。

播磨灘に面する兵庫の赤穂で生まれたものとして、海と言えば常に南側にあるものだし、日頃このあたりを漕ぐことの多い自分としては、今回漕ぎ出した高松から北にある海を起点に、同じ瀬戸内なのに日の昇る方角や沈む位置が文字通り逆であったことも面白く、そんな意味でも「視点が変わること」を大いに実感させられた。

また、通い馴れた亀の島アメリカのビッグマウンテンの砂漠やサウスダコタの大草原のような、広大なスペースに小さな点のような自分が存在する、ということが体感できるのは、この日本列島ヤポネシアにおいては海を除いて、そう多くはないだろう。

その頃アメリカを旅して憧れた、大平原を馬で往く、という夢は大海原をカヤックで往く、ということとなって実現した。

そしていま現代において、陸を旅することの不自由さにくらべて、なんと海の旅には自由さが残っていることか!

もちろん海にも法律はあり、またルールももちろん身につけるべき技術は容易に生死に関わる分、陸にくらべて厳しい部分はあるのだが、それはなんというか、その殆どは理に叶ったものであり、陸側の道交法だの、自治体の条例だのに比べれば、はるかに自由度が高いことを大いに実感できるのだ。

この自由さを、この現代に、このニッポンにいて感じることができる手段としてのシーカヤックの旅は、だから格別なのだと思う。

かつてジャック・ケルアックは「路上(ON THE ROAD)」という小説で、都市や社会の因習から逃れる自由を描いて多くの若者に支持されたが、現代においては ON THE ROAD でさえ自由さは失われ、その失って久しい自由を求めて、横断隊のように海原に漕ぎ出すことはある意味、時代の必然なんだろう。

だから最近目に止まったBE-PAL誌での連載タイトル、OFF THE ROAD は意味深でおもしろいと思うし、内田ボブさんの名曲”ヤポネシア・フリーウェイ”は時代の求めるビジョンである、と心に響くのだ。

ホクレアしかり、古来、海の民が自由に行き来していた頃の、その自由さや、喜びが甦ってくる感覚・・・・・。

♪ ヤポネシアフリーウェイ〜♪ ヤ〜ポネシアフリーウェイ♪

な〜んて、内田さんが漕ぎながら歌っていたのもあって、2日目はそんなことを想い感じながら漕いでいけた程、初日とはうって変わった穏やかな海だった。

横では、造園業の親方をやっているユウジさんが「オレみたいにこんな本物の島々を見て、はぁー、庭を造っている庭師は、たとえ京都あたりの有名な庭師にもおらんよのお〜」と漕ぎながら言っている。

有名な龍安寺などの石庭にあるような、日本の伝統的な禅ガーデンには白砂利に模様を入れた“波”や“海”に浮かぶ、石の“島々”が多くみられるが、なるほど、毎年本物の海を漕いで島々を巡り、そんな大いなる地球の庭で遊んでいる。そんな庭師は現代はもちろん、過去にもたぶんいないだろう。

なにより、こんなことを言いながら漕いでる庭師の親方がいること自体、だから横断隊はおもしろい!
He is ザ・マスター・オブ・アースガーデンだ!!

晴れた穏やかな日には、近づいては離れ、離れては近づく島々が重なり合って濃淡織りなす。

ああ、瀬戸の風景は本当に美しい〜。

こんな日のパドリングは絶好のメディテーションである。

次の日も、少し午後から霞がかかってきたが、凪の海でありがたかったナ。

この2日間、合計で100K以上漕いだと思うが、けっこうイケたもんだと、昨年のことを憶い、我ながら感心した。

昨年のペースよりゆっくりとはいえ、疲れや痛みが腰や身体にそんなに出なかったのも有難い。去年の教訓を生かしてこまめにシート位置やペダルをいじったことも良かったようだ。

また、なにより今回パドルを新調したことも大きい、と思っている。

横断隊のペースとして1時間漕いで10分休む。この1時間でどこまでついていけるか、どこまで遅れないでいけるか、が身にしみて判っているので、一漕ぎひとこぎ・・の差は微妙なものだが、それが30分、1時間でどのくらいの差になるか?

このことを踏まえて、フネは自分としては変えようがないから、後は自分の体力、技術もさることながら、パドルにも可能性があるはずだ、と思い立ち、フンパツしてカーボンのリトル・ディッパーを手に入れた。

まあ、それが到着してから横断隊初日までテスト漕ぎが出来なかったことはいただけないが、以前のFRPチヌークに比べて、その軽いことカルいこと!

1時間全力で漕ぐのもそうだが、朝から夕方まで一週間毎日8〜9時間漕いでいく横断隊の現実を考えると、この軽さは精神的なプレッシャーもかなりカルくしてくれた。

なので、横断隊に参加すること3度目にして初めて少し”余裕”を感じたし、そのヨユーから調子に乗って追い波で”沈”しかけたこともあった(のはご愛嬌・・・笑)。

それと、今回は4日間をなんとか漕ぎ切れたら、ということも精神的には少し楽だった、かもしれない。

しかし、その自分の最終日4日目の早朝から迎えたしまなみ海道、芸予諸島の伊予大島と伯方島間の舟折瀬戸にはシビれたし降参った!

舟が折れる程の急な潮流からその名がついたところだが、折からの大潮向かい潮がはじまっていて、まるで台風の川のような激流だ! とてもじゃないが歯が立たない。おまけにここは本線航路でもあるため、大きな貨物船が潮に乗り信じられないスピードで向かってくる。なので前進はおろか、わずかすぐそこの大島側に横切ることすら到底無理だった。

そして一時潮待ちのため上陸したが、潮が変わる頃には今度は強い向かい風が吹き出した。

待つこと6時間余り、午後3時頃。もう今日はここまでか、と思った頃に風が止み、それで急遽向かいの大島まで渡ることとなった。もちろん潮は逆になっており舟折瀬戸は問題なかったが、大島大橋を抜けたあたりからだんだん白波がたってきて緊張する。昨年の上関〜祝島間の海峡程ではなかったが、それぞれフネの特性か、皆いくつかの集団に別れてしまい、それも少々心配になった。

そして到着した伊予大島の宮窪町余所国の港で一息つき、そこから見える小高い丘の海にせり出すように建つ神社に、この日の無事を感謝しカヤックの上から手を合わせた。

ここもたぶん水軍ゆかりの神様が祀られているんだろう。

能島村上水軍の本拠地があった能島(のしま)はこの大島と伯方島の間にある小島で、回りを強烈な潮が流れることから天然の要塞としてうってつけだ。そしてこの潮を熟知した人々が、瀬戸内はおろか往時には紀伊半島から鹿児島まで西日本の海を支配していた、と翌朝離隊してみんなを見送った後訪れた村上水軍博物館で知った。

その同じ海、潮のなかを漕いでいく・・・、醍醐味だ〜!

さて今回ここまでの要所要所で絶妙であったかいサポートをしてくれたのが、坂出のビーテンさんやここ大島のクマ球磨さんたち四国の衆だ。彼らのそのハートにはもちろんお遍路さんをもてなす”お接待”の精神が染み付いているのだろう。でもその最も深い根っこの部分には、瀬戸内に代々住んで自由にこの海を行き来した、そんな海賊衆や水軍衆の血がいまも脈々と流れているんだろうな、と思わずにはいられない。

そんな四国の瀬戸内側をシマ(縄張り)とする、いまも褌を愛用する男臭くて?情け深い海の衆たちとの出会いが今回の横断隊の収穫の一つでもあったと思う。

もちろん、彼らは彼らなりに、ただこの冬の初めの荒れる日の多い瀬戸内海を、ぼくらが一週間以上にわたって、名声や地位ましてやお金なんぞとは関係なしに、ただ昔の海の民のように潮を読み風を読んで、手漕ぎの小舟で海を往く。その行為にただ心感じてくれて、漁船を出してくれたり、火を熾してくれたり、酒や食い物を差し入れてくれたり、おまけに寝床や風呂まで提供してくれたのだと思う。

そして何より、そんな根っから海の匂いのする男たちだからこそ、つながる同じこの海の問題として、上関に計画されている原発問題は人ごとではなく、ましてや対岸の火事ではないだろう。伊方原発を抱える四国瀬戸内の、その故郷への信仰深き者として、また地球全体を意識せざるをえない、核という問題に古くから関わってきた、この星への愛深き者として、その心持ちが、ぼくらが向かう祝島島民への共感そして応援となって、尚一層愛に溢れる ”お接待”をぼくら横断隊にもしてくれたんだと思っている。

昔の海賊は奪うことが生業だったかも知れないが、クマ球磨さんが酔っぱらっては繰り返す、

奪い合いの世から、これからは与え合い、分かち合いや〜。

横断隊がビジョンクエストであるならば、その過程で現れる全てはギフトであり、乞うべき大いなるビジョンのその一部である。

自然からも、時には試練と思われることも与えられるが、真摯にそれに耐え、知恵を絞って、気力をふるい、力を合わせ乗り超えれば、それは結果として大いなる知恵と力となる。

また例え、その時に乗り切れなくとも、それは次への知恵と力として、また先に進んでいけるのだ。

先に進むこと。漕ぎ続けること。それを常に願い求めること。これこそが横断隊をして、海を往き島を目指させるのだ、と(まだまだえらそうには言えないが)自分なりにはそう思っている。

 

それはまた、ホクレアに教えてもらったことでもある。

”おまえのこころに 島 は見えているか?”

目指すべき、美しい、聖なる島が!

さて、その島影に影が迫る。

ヤポネシア日本列島取り囲む55基もの原子力発電所。原発一基が一年で出す放射能を一日で空に海に放出するという六カ所村核再処理工場。そして島を削り埋め立てられ、造られようとする上関瀬戸内原発・・・・。

これこそが、いま、ここを漕いでいるところの禅問答、最も大きな”公案”ではないか?!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人,なぜ、山に登るか?

アルピニスト曰く

そこに山があるからだ。

 

では人、なぜに海を往くか?

カヤッカー曰く

そこに海があるから、じゃん!

 

しからば、

その、「海」とは?

「???」

その「海」がなくなれば?


「!!!」

 

喝ぁッ!!

 

人、なぜ、この星に住むか?

子どもが言う

この星に生きてるから〜!

 

母なる海に、いのちの藻場に、祝いの島に、

放射能の海、温排水、利権渦巻くシマ(縄張り)争い?

 

如何んや?!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

視点が変わり、この世界の見方が変わるまで、

いま、この海を漕ぎ続けよう!

いつの日か、共に大悟の岸に至るまで、

 

ALL MY RELATIONS !

ハル・スロータートル拝

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

( 追記、祝島〜WATERMEN FOR PEACE編)

 

なぜ 山に登る

そこに 山があるから

人 山に登らず
山 人に登る

山は人
人は 自分自身に登る

山なく 人なし
透明大気
なにかが
登ったり
下ったり


( ナナオサカキ 詩集 犬も歩けば )より


ぼくの横断隊は4日目伊予大島にて終了したが、最終日再び横断隊が到着する祝島まで駆けつけた。

それは祝島〜長島田ノ浦の上関原発予定地間を海を愛する者達集まって漕ぎ出そうというWATERMEN FOR PEACEと名付けられたアクションに参加するためで、その発起人となった地元山口のサーファー達と、それに賛同した横断隊リーダーの一人で、日頃からこの海の危機に対して取り組みを続ける地元カヤッカーの原くんの呼びかけで、横断隊有志も参加することになったからだ。

横断隊の最終日は、絶好のパドリング日和に恵まれ、いつもなら祝島の港にまっすぐ入っていくところを時計回りに島をはじめて一周し、途中、三浦という浦にある氏本農園を見学するため上陸したのだそうだ。

ここは昔、京都より九州国東半島まで八幡神を勧請したその帰りに船が嵐のため避難して、当時ここに住んでいた氏本家のご先祖たちに助けられ、そのお礼参りにと始まった交流が、1200年いまも続く伝統神事、神舞(かんまい)の由来なのだそう。

いまはもう民家はないが、ふるさとにUターンした氏本さんが過疎や高齢化によって荒れた棚田や畑、里山の窮状に驚き、そして長年やっていた畜産技術を活かした豚や牛の放し飼いをここで始めた。豚田兵と名付けられた豚たちが荒れた山や田畑の草を食べ、その結果、健康で美味しい祝島特産肉にもなる。そんな実にすばらしいふるさと再生、村おこしを実践している。

これは祝島未来航海プロジェクトと名付けられ、先頃BE-PAL誌にも特集されていた。

今回、鬼ケ島の元豚小屋を後にした横断隊は、ビジョンの探求、野生の実践として海を漕ぎ、その旅の果て、祝いの島の放し飼い豚農場に到着する、というのも何か象徴的でおもしろい! これもまたビジョンだなぁ(笑)。

ぼくは残念ながら横断隊の最後には一緒に漕いでゴールすることは叶わなかったが、たった
二晩会わなかっただけの隊員たちとの再会はうれしかった。

何より無事に、また皆とここ祝島で会えたことが。

そしてまた同じ海に暮らすものとしてWATERMEN FOR PEACEに参加するべくやってきたビーテンさん、クマ球磨さんたち祝島レインボ−ツアー一行との再会もうれしかった。

彼らは20年前の'88年に伊方原発が出力調整実験という、その2年前に起きたチェルノブイリ事故を誘発したのと同様の実験を行うことに対して、何千人もの市民やミュージシャンたちが全国から集まって抗議した「原発サラバ記念日」の時、駆けつけた祝島島民たちへの、今度はそのお礼参りも兼ねていた。

ビーテンさんたちは四国の水軍末裔でもあり、誰がつけたか「褌学会(ふんどしアカデミー)」という名前も持っている。

その会長がクマ球磨さんで、相談役ビーテンさん、加えて長老ナダさん、ハーギさんたち
が今回その一行だ。彼らはカヤックはもちろんヨット経験者に、北洋漁業経験者、タンカー機関士と、そのアカデミーの名と褌は伊達じゃない真の海の男たちなのである。

だから今回、シーカヤック・アカデミーと褌アカデミーが一同に会した、と言うことでもあり、また褌アカデミー長老のナダさんは、'60年代当時ビート詩人のナナオサカキやゲイリー・スナイダーたちが、コミューン運動「部族」をはじめる前のバム・アカデミー(乞食学会)を名乗っていた頃からの流れを汲む人だから、今回の集合はかなりアカデミックでもある(笑)。

一行は、横断隊2日目にも瀬戸大橋下で出迎えてくれたラスタカラーに輝くビーテンさん自前の漁船「ヤポネシア号」での来島で、祝島の漁港に係留し、寝泊まりもこの船の中、丁度訪ねたときも船からサビキでバンバンいわしを釣っていて、そのまま船のなか熾した長七輪に乗せ、とれとれピチピチ宴会の真っ最中だった。

この光景はまさに海洋漂泊民、現代の家船の衆のようでもあった。

夕方、毎週月曜日恒例の祝島島民による通算1000回を超える、ぼく自身3回目の原発反対島内デモに参加させてもらい、翌日とそして今後に向けて気勢を上げ、その後いつもお世話になる老人会館での歓迎交流打ち上げ会へとなだれ込んだ。

2年前はここで内田ボブさんのライブも行い翌年に実現したホクレア祝島来航への狼煙のような時となったし、昨年は横断隊到着に合わせた形で鎌仲ひとみ監督も初めて来島して、映画「六カ所村ラプソディー」の上映会を行った。それがたぶんに機縁の一つとなり、以後、持続可能な社会に向けて国を挙げて取り組むスウェーデンと、1000年以上続く伝統的な祭りとその生き方のなか、だからこそ対岸に建てられようとする原発計画に27年間一貫して反対してきた、ここ祝島の暮らしを次回作にと、今回も鎌仲監督はじめ撮影クルーの人たちもやってきていた。

その次回話題作のタイトルはまだ仮だが「ミツバチの羽音と地球の回転」となり、2009年秋の公開予定と決まった。

もちろん祝島の山戸さん始め、孝君、清水さん、木村先生、エベスさん、国広さんご兄弟、氏本さん、皆出向いていただき、おまけにお酒、ビールはもちろんのこと、穫れたてヤズの刺身や氏本農園特製の放牧豚のソーセージやハンバーグなど、毎度ながらのたくさんのごちそうでもてなしていただいた。

(いつもながら、本当にありがとうございました!)

横断隊ももう6回目を数え、年々祝島の人達との交流も深まっている。

また普段も原くん始め何人かはツアーで島を訪れたり、昨夏には4年に一度開かれる伝統ある神舞もあって、ぼく自身含めて内田さん、ユウジさん、原くん、野村さん、ランボーと多くの横断隊員が由緒ある櫂伝馬を漕がせてもいただいた。

'07年ホクレア来航時の櫂伝馬での出迎えの時も,原田さん、野村さん、まっちゃんたちが櫂伝馬を漕がせてもらっている。

しかしそんな背景には隊長、原くん始め隊員たちの、共に上関原発計画許すまじ!との想いと、行いのその積み重ねがあってこそ、こんな歓迎をしていただいているのだと思っている。

そのような中で、翌日行われたWATERMEN FOR PEACEは、この時期にはめずらしい奇跡のような晴天ベタ凪ぎの絶好の漕ぎ日和となった。当日渡船でやってきたサーファーやカヤッカー、中にはボディボーダーの女の子や、遠く神奈川から徹夜でドライブしてきたホクレア日本人クルーのウォーターマンの姿も。またゴムボートで岩国や遠く横須賀基地まで出動するような、広島のピースリンクの人達も対岸から漕いでやってきた。

残念ながら祝島のいつもの方々は、同日重なった上関原発埋め立て取り消し訴訟の裁判所行きのため、これには参加できなかった。またそれに伴い地元のテレビ、新聞各社の取材も裁判関係に集中してしまい、ここにはその姿は一人もなかったが、そのかわり鎌仲監督たち撮影クルーのチャーターした祝島漁船が悠々と、共にこの海を渡っていた。

そしてもちろん、只でさえ目立つヤポネシア号の船体に、チベットのマントラ旗や横断隊原くんから渡された原発絶対反対旗、そして「祝」と大きく手書きされた一揆?に似合うムシロ旗、なによりヤポネシア海洋民伝統の赤褌はじめ、ほかのカラフルな褌もそのハレの日の船出を大漁旗のように飾りたて、ビーテンさんがお手製のホラ貝を響き渡らせながら、WATERMANたちの最後尾を守りかためてくれた。

横断隊と言えば、原くんを先頭に,時折やってくる本線航路の大型船をよけながら、また潮の流れを読みながら、たぶん生まれて初めてだろう、この距離を漕ぐサーファー達を先導し、周りを固め、横断隊とはスピードも勝手も違うこのイベントに多少とまどいながらも見事無事対岸まで導いた。

その間には内田隊長による適切な状況指示や、他の隊員が途中ゴムボートを牽引したり、ボディボーダーを引っ張ったりと、さすが、数々の横断隊経験を活かしたサポートに邁進していた。

今回格段に進化した隊列でのフォーメーション経験は、こんなときにもすごく役に立っていた。

まわりの状況を常にみる、という意識が身に付いてきた証拠でもある。

まあ、本線航路を過ぎたあたりから、横断隊に比べてあまりのそのスローなペースにつられて、中にはパドルではなく手でカヤックを漕ぐ木村先生などもいておもわず笑ってしまったが、横断隊本番としてはこの前日に終了したことと、それくらいありえない天候が穏やかな、リラックスしたひと時を与えてくれていた。

しかし、このサーファー達から始まったアクションに、仮に横断隊のメンバーの都合がつかずに参加できなかったとしたら、けっこう大変だっただろう。

特にもっと海が荒れていれば、ね?

しかし逆に横断隊が参加したことは意義のあることで、この初めて開催された第一回瀬戸内
WATERMEN FOR PEACEにおいて、その精神的支柱となっていたと思う。

それはやはり日頃精進を続けるベテラン隊員たちの技術や経験はもちろんのこと、6年に亘ってこの瀬戸内を計1500キロ余り漕いで来た、その知恵と力が生きるからだ。

横からずっと伴走していた鎌仲監督たちの撮った絵には、そのあたりがどう映っているのやら!? 楽しみでもある。

ゴール近くになってサーファー達も初めて見る田ノ浦の美しさと、達成感でほんと、みんないい笑顔していた。

そしてゴール地点の原発予定地の浜にてチャント(祈りの唄)を詠い、タイコを叩くSKATYたちや、手を振って、おむすびを用意して待っていてくれたその仲間、集まってくれた人たちとの出会いはまさに感動的だった。桟橋がないため少し沖に泊めたヤポネシア号と、その上で正装となって踊る褌の男たちの姿も実に美しかった。

ホクレア祝島来航時もそうだったが、まさに奇跡的な好天のなか行われたこの一連の出来事は、この海の聖性と、大いなるものの導き、その存在をあらためて感じさせてくれたし、一週間漕いできた、その末に現れたこの光景こそは、横断隊とそこにいた者全てに与えられた、大いなるビジョン!であるだろう。

ONE OCEAN , ONE PEOPLE !

これはホクレアが運んできたメッセージであり、マナ(魂)であったが、このスピリットが響き合い、同じ瀬戸内の聖なる海で、同じ想いに生きる海の民、平和の民を集めて、こんな光景が実現した!

これは希望であり、光であり、夢であり、真実である。

横断隊の良さ、それはチームとして共に一つの島を目指し、漕ぎ続けることだと思う。

漕ぎ続けることで、見えてくるもの。

それを、より確かなものにするために、

また、これからも、漕ぎ続けよう!

THE SEEKERS OF VISION , WE ARE !

以上、長い追記文になってしまったが、個人的には今回の横断隊とWATERMEN FOR PEACEは不可分である、との思いから報告させていただいた。

今回もお世話になった全ての人にあらためて感謝いたします。

わだつみの神様ありがとう!

横断隊兄弟のみなさん、また海の上で会いましょう!

ALL MY RELATIONS !

ハル


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*瀬戸内カヤック横断隊
  http://blogs.yahoo.co.jp/oudantai/

*氏本農園・祝島だより
  http://blogs.yahoo.co.jp/farm_ujimoto

*原発サラバ記念日youtube
  http://jp.youtube.com/watch?v=CYwNuXl7CUg

*ミツバチの羽音と地球の回転
  http://888earth.net/

*WATERMEN FOR PEACE
  http://www.surfrider.jp/info/info.php?no=640

*ビーテンさん・レポート
 瀬戸内カヤック横断隊〜祝島レインボ−ツアー
 http://ameblo.jp/veeten/archive2-1-200811.html#main
 http://ameblo.jp/veeten/archive-1-200812.html

*ナナオサカキHP
  http://amanakuni.net/nanao/

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