>■ 15年目の神戸〜and beyond

[2009/2/6]

1月17日は阪神淡路大震災から15年目の日だった。

それで早起きして神戸の三宮の公園にて行われる追悼式典に出掛けた。
関西に戻った5年前よりほぼ毎年出向いているけど、やっぱり15年という節目と日曜日が重なって今年は例年になく大勢の人が来ていた。

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地震のあった時間午前5時46分ちょうどから黙祷を捧げ、しばらくして人が少なくなっ
た頃、ろうそくを献灯した。

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1995年当時、その3週間程前に一時帰国のつもりでアメリカから帰ってきて、久しぶりのお正月を日本で過ごした。そしてビッグマウンテンのご縁で長野に住むニッパチさんに誘われて佐久の望月にできたばかりのスウェットロッジに出掛けた。その翌朝電話で聞いたこの地震。それで東京経由で関西に戻ってきて神戸に入り愕然とした。
当時アメリカに居る間友人が住んでてくれた高層の公団住宅は、部屋の内部はぐじゃぐじゃで、天井のコンクリートにもひびが入り、後に半壊と認定された。

そこから歩いて15分くらいのところで阪神高速道路が横倒しになり、周り全て見渡す限り、いままで見慣れた街の風景はこの世の物とも思えないくらい壊れ果てていた。

そして国道2号線沿いに建っていたティピを見つけて、そこでしばらくボランティアしたのが「神戸元気村」だった。


この元気村の代表だった山田和尚、通称バウさんと追悼式典で久しぶりに会った。

「お互いあの頃は身体が動いたなあ、若かったなあ〜」と笑い合ったが、バウさんはいまももちろん動いている様子だ。でも、お互い15年たってるから、まあ、多少動きが鈍るのはしかたないか(笑)。

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(山田バウさん)

大阪心斎橋「若松」の親方で名ジャンベ奏者の大二郎も来ていた。彼も震災の頃は桑名
正博さんたちとバイクで物資を各避難所に届けていた。今日も大阪からバイクで来て、
寒くて死にそうだった(笑)と言っていた。

でも、この日来たのは15年ぶりだったらしい。

大二郎も彼が10代の頃からのつきあいだが、いまや良きパパをやっているらしく、可愛
い娘の写真を見せてくれた。

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また10年前の今頃、飛騨高山の位山からビッグマウンテンまで歩いた祈りのウォーク" The Long Walk for Big Mountain " 以来のつきあいで、いまもビッグマウンテンに通い
有機の百姓もやっているシンゴとマイちゃんのカップルも今年も来ていた。

   
何故か毎年この場所で亡くなった人の数と同じ本数の竹ろうそくを前に、祈りを捧げることから新たな一年がはじまる。そんな想いが毎年強くなる。

今年も東京からCandle Juneくんも来る予定だったが、前日から風邪で寝込んでいるらしく今年はJuneくんのスタッフ3人がやって来てくれた。


彼らと別れ、朝日を浴びながら帰る途中に電話が鳴った。出てみるとJuneはジュンでも違う純さんからだった。

アメリカNYの北部の森の中に、地元ではピースパゴダと呼ばれている御仏舎利塔を建て、そこのお寺に住んでおられる日本山妙法寺グラフトン道場の庵主さんで安田行純法尼の通称、純さんだ。

純さんは年末よりしばらく日本に帰っておられて、いま京都だと言う。それで、会いましょう、と言うことになり、今日が震災の日だと言うと、では神戸で夕方5時半頃に同じ場所で、と約束した。

そして夕方再び同じ公園に来たが、うっかり携帯を忘れて来てしまった。朝と同様人が多かったが、この季節は日が少し長くなっていて、これなら見分けがつくだろう。しかし待ち合わせ時間が来ても会えなくて、5時46分の黙祷の頃には日も暮れ始めた。その後は暗がりの中ろうそくの灯りだけとなり、人の判別がしづらくなってきた。それで近くのコンビニに公衆電話を探しにいったが、このあたりには無いと言う。(思えば震災を契機に関西では携帯が普及しはじめたよな)

さて、会えるかな〜?と思い始めた頃、どこからか、聞き覚えのある太鼓の音が聞こえてきた。

音の鳴る方に人をかき分け進んでいくと、「やっぱり!」純さんとシンゴが竹ろうそくを前に地面に正座し、団扇太鼓をたたき「ナムミョウホウレンゲキョウ〜、〜」と唱えていた。しばらくぼくも後ろに座っていたけど、マスコミの格好の被写体となったみたいで、パシパシ写真を撮られた。

どこか夕刊にでも載ってませんでしたか(笑)。

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ぼくが純さんに初めて会ったのは、1992年10月のワシントンDCの国会議事堂前だった。

その年の夏、10年務めた会社を辞めパートナーと共にアメリカ大陸亀の島に旅立った。
ビッグマウンテンでのサンダンスを皮切りに、その年明けサンフランシスコから歩き始めた祈りのウォーク" Spiritual Walk 1992 and beyond "を目指し、途中オハイオから合流した。

このウォークは、当時ナバホ、ホピの住む、聖地ビッグマウンテンに一人で庵(いおり)を建て住んでいた、同じ日本山妙法寺の島貫潤二上人が自ら始めた巡礼であった。それは、この年500年目を迎えたコロンブス”発見”以降、現在も続く数々の先住民に対する侵略とたくさんの犠牲に対して、大地を歩き、その行為を捧げものとすることで癒し、そしてこれからの500年をもう再びこのようなことが起きないための祈りとしよう。

そのために、コロンブス発見500年に沸くアメリカ合衆国を歩き、本来この島の住人であるいくつものネイティブたちのくにぐにを巡礼し、そしてコロンブスが来た10月12日には首都ワシントンDCに到着し、次なる500年へ希望の祈りを届けよう。

そう誓願して始められたものだった。


島貫上人とは、'90年初めて訪れたビッグマウンテンで出会った。

当時バブル期のニッポンでサラリーマンしてた身からすれば、電気も水道もないビッグマウンテンに住むナバホの長老たちの存在はそれこそ神話のようだったが、そんなところに一人木を伐り土で固めたナバホのホーガン式の小屋を道場にして住んでいた、この島貫潤二上人の存在自体にも驚いた。

端正な顔立ちの人だったが、それに似合わない無頼な感じの、虚無な空気を時折醸す、この人は一体どういう経歴で出家し、何でこんな所に住んでるんだろうか?と、大いなるナゾが深まった。それまで知っていた普通の日本の坊さんといえば、どちらかと言えば世俗的で、金襴緞子なお寺に住んで、いい身分だなあ(笑)なんてイメージの方が強かったから、こんな原始的な出家の世界を強いる日本山妙法寺という宗派は一体何なのか?と。

島貫上人なんて、アリゾナの砂漠の中にビルマの竪琴みたいな格好で、それでいていろんな部族のインディアンたちからHEY ! JUNJI とか呼ばれながら、黄色い袈裟をスカートに剃髪の頭にセージを巻いて、サンダンスまでここで踊っていたからね〜。

「あのスキンヘッドは何というトライブだ?」なんて初めて来たサンダンサーに言われたりね。


この同じ時に出会った日橋さん(通称ニッパチさん)も元日本山の御出家で、当時は50代後半くらいだったか、カリフォルニアのサンタバーバラというリッチタウンに居候しながら、毎夏ビッグマウンテンのサンダンスに駆けつけていた。

この時も若いヒッピー娘のいかしたおんぼろワーゲンバスに乗って小さなバッグひとつでやってきた。

ニッパチさんも、も一つ輪をかけたような!小柄ながらその存在感は強烈で、ビッグマウンテンでのサンダンスのスウェットロッジに一緒に入ったら、フンドシ姿に背中にはなんと!大きな墨が入っていた。

顔つきはナバホのじいちゃんみたいで、髪は三つ編みのロングヘアー。よくスウェットの中、自己紹介で「アイム ニッパチ、ノット アパッチ!」とか言ってインディアンの連中を笑わせていたっけ!

とにかくこんな人たちがいる日本山妙法寺というのは一体どんなところなんだ?って素朴に、そして強烈に興味が湧いたのはしょうがないだろう。


その後、島貫上人から届いた手紙でこの'92年のウォークの事を聞かされて、一緒に歩きませんか、と誘われた。その頃、丁度会社を辞めてアメリカ大陸亀の島のインディアンたちのくにぐにを巡って、いろいろ教えを請いたいな、と。ちょっとカスタネダやローリングサンダーとかにも憧れて、いろいろ思いが膨らんでいた頃だったから、これはもうビジョンだ!このタイミングだ!と、そう決めてこのウォークに行く事にした。

当時インディアンの精神的な運動に触れはじめて、いろんな事を知りはじめた中で、特に1978年に行われた大陸横断のインディアンたちの行進 " The Longest Walk "や続いて'80年に行われた " The Long Walk for Survival "の話とか強烈に印象に残っていた。
また'88年、東海岸から西海岸までアメリカを横断して日本に渡り広島から北海道まで走った " Sacred Run (当時はLongest Run for Land and Lifeと呼んでいた)" や ''90年の" Sacred Run Europe "との出会いもあって、自分としてもインディアンの世界をより深く知るためには、先ずは彼らの住む大地にこの身体と想いを捧げるために歩きたい、と。

そう思い始めていたから、コロンブスが来て500年目の年に行われるこのウォークの話はもう正に、願ったり叶ったり!だった。

そんな'92年のウォークだったが、夏、ぼくらが参加した頃にはもう歩き始めて三分の二以上が過ぎていて、いろいろ問題も起きていた。いや〜島貫上人も大変そうだったな。

それでもぼくらにすれば見るもの触るもの全て新鮮で、子連れで参加しているラコタのお母さんや、チェロキー、セミノールの若者たちと一緒にアメリカ人、日本人混じって、毎日毎日20マイルから時には30マイルほど歩きながら、身体毎この大陸を見て感じ得たことは、何ものにも代え難い体験となった。

政治犯として刑務所に入れられているA I Mリーダーのレナード・ペルティアをサポートするTシャツやビッグマウンテン・サンダンスTシャツ始め、各地でお世話になった平和運動の拠点に置いてあったメッセージTシャツとか、そんなTシャツのかっこ良さや力強さに目覚めたのも、このウォークでのことだった。

そして目的地であるワシントンDCが近づいて来た頃、自発的に断食をしようとするウォーカーたちが現れた。それは、この500年間に起きた殺戮や侵略または母なる大地への破壊など、それらに対する少しもの癒しとならんとする想いと、それがもう2度と繰り返されない世の中になって欲しいことへの願いとして、2日、3日、中にはサンダンスと同じ4日間を水も飲まない断食で歩く者など出はじめた。

みんな、一歩一歩歩いてくる中で、自分自身も浄化され、知らず知らずのうちに祈りが深まってきた、そんな証しでもあったと思う。(こんな感覚はなかなか説明しづらいけどね)

もちろんぼくらも断食して歩き、そしていよいよワシントンDCに到着した。


ワシントンDCの国会議事堂に着くと、そこにはたくさんのアメリカ人の、特にベテランズ・フォー・ピースと呼ばれる平和を願う退役軍人たちがなんと!9月1日から10月12日コロンブス・デーまでの42日間!の断食を行っていた。中には核兵器を積んだ貨物列車を止めるために線路に寝そべり、どうせ逃げるだろう、と脅しのために突っ込んで来た列車に轢かれて両足を切断したブライアン・ウィルソンという著名な平和活動家も車イス姿で断食していた。

それはヨーロッパ系アメリカ人としてこの500年間に起きた全ての侵略と殺戮を、この大陸だけではなくアジアやベトナムにおいても同じであると考えて、それらへの少しでも贖罪とするために、文字通りいのちがけの行為だった。それは何かに反対して行うハンガーストライキとは少し様子の違う、祈りの一つのかたちとしての断食でもあったと思う。

この光景に出会い、アメリカという国の良心、そしてそこに大きな希望の光を感じた事は、今でも忘れることが出来ない。


その断食の輪の中に、せめてその半分でも、と21日間断食していたのが、純さんだった。


そこでぼくらも全員、国会議事堂のリンカーンの像の前の階段で、最後の4日間の断食を共に一緒におこなった。

そうして500年目の昇る朝日を集まった大勢のインディアンやアメリカ人や、そしてたくさんの日本山妙法寺のお坊さんに混じって大きな輪の中、無事迎える事ができた。


その後、DCを後にして、当時仏舎利塔の建設中だった純さんのお寺を初めて訪れて、しばし休憩をいただきながら少しお手伝いをさせてもらった。


そのうち一人二人・・と、ウォーカーたちが帰路につくため出て行く中、ぼくらは何故か逃げ遅れて、そのままサンクス・ギブン・デーを迎えることになった。

そしてまたもや断食しながら歩くこととなったのだ(笑)。

イギリスからピルグリムファーザーと呼ばれる人たちが初めて上陸した場所プリマスまで、途中にある原子力発電所を巡りながらピースウォークを行った。ここで、最初はヨーロッパ人を助けたが、後にヒドい目にあわされたこのあたりに住むインディアンの末裔たちがたくさん集まって、現在も続く悲惨な現実に抗議するギャザリングに出くわした。

その時一人のインディアンから、当時カナダで起きている巨大ダム計画の実態を詳しく知ることになった。トム・ドストゥという名前のアベナキ・インディアンだ。

そして12月を迎えて、お寺では氷点下10度にまでなった雪の中、また1週間の断食をやり、明けて2日後より純さんが誓願した、今度は北のカナダ、ケベック州にあるイヌー・インディアンの居留地に持ち込まれた巨大なダム計画の撤退を求める祈りのウォーク" Walk in Prayer "を歩くこととなった。(ほんとは、もうあったかい南の方に脱出したかったんだけどねー笑)

「若松」の大二郎もその頃ここにいて、それでいっしょに極寒の地まで歩いた仲だ。

毎日ヒゲにつららをぶら下げながら、時には吹雪のなかクリスマスも正月も歩いた。

途中お世話になったインディアンたちから、ビーバーの肉やトナカイをごちそうになったことはいい思い出だ。

でも到着して4日間、歓迎のごちそうを横目にまた断食したけどね(笑)。


以後、毎年アメリカを旅する時、7月アリゾナのビッグマウンテン、8月サウスダコタのローズバッド、そしてミネソタのパイプストーンと、それぞれサンダンスの後は東に車を走らせて、純さんのお寺にたどり着く。そこでいろいろ手伝わせてもらいながらしばらくやっかいになり、御修行の真似事ながら時には断食やウォークを歩かせもらい、多くの教えと体験を頂いた。

ここグラフトン道場は周りを広葉樹の森に囲まれた、かつてはこのあたりに住んでいたモヒーカンの人たちの石組みの遺跡が残る素晴らしい場所だ。

この森の紅葉が、それはもう見事な10月のガンジー翁の誕生日の頃、毎年行われるピースパゴダの落慶式典にはノーベル平和賞受賞者や数多くの平和活動家、名の知れるインディアンのチーフや指導者たち始め、地元のたくさんの人たちが集まって盛大にお祝いが続けられている。

そして普段も日本からも不登校のティーンエイジャーやフリースクールに通う子供たちも純さんを慕って集まってくる。

これは、もちろんその日本の仏教への関心もさることながら、日本山妙法寺の教えと、その教えをシンプルに、そして深く実践する純さんの人柄と修行を通じた人徳に依るところが大きいと思う。

アメリカに限らず、世界中の平和運動の最前線やかつて日本でも平和運動、反核運動、反原発運動の最前列には、この独特の黄色い袈裟をつけた剃髪の、団扇太鼓を打ち鳴らす日本山のお坊さんたちの姿があった。

沖縄、広島、長崎、先の9条WALKでも、、もちろん今も各地を歩き、祈っておられる。

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ぼくらも10年前のいまごろ" The Long Walk for Big Mountain "を歩いたとき、東京のアメリカ大使館まで歩いた後、海を越えてアリゾナのフラッグスタッフから再びビッグマウンテンを目指す行進の時に、純さんと市川さんという庵主さんが駆けつけてくれ一緒に歩いてくれた。

この時のウォークは、その2年前に亡くなったニッパチさんのサンダンスのパイプと鷲の羽根を先頭にそれに続いて歩いて行った。そして祈りをビッグマウンテンに捧げたセレモニーの後、同じく'96年に亡くなった島貫潤二上人の道場跡に行き、お線香とお経とお太鼓、そして感謝を捧げビッグマウンテンを後にした。

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 (映画" The Long Walk for Big Mountain " のDVDより)

因みに、純さんやニッパチさんは、1978年に行われた " The Longest Walk "で初めてアメリカに渡り、以来インディアン運動と深く関わりながら平和運動を修行とされてきた人たちだ。


日本山妙法寺というのは大正時代に藤井日達という高僧が、日蓮宗から独立してつくられたのだそうだ。

そして当時、仏教が生まれた国にも関わらず仏教が廃れていたインドに渡り、マハトマ・ガンジーと運命の出会いを果たし、そこでお釈迦様の教えである「不殺生戒」とガンジー翁の説く「非暴力」が結び合ったのだと。それで今でもガンジー・アシュラムの毎朝の諸宗教の祈りの最初に「ナムミョウホウレンゲキョウ〜」から始まると言う。

そして「世界平和」こそが、いまこそ宗教者全てが目指すべき最高の目標であるとして、寺に固持せず、世界の紛争地に団扇太鼓一丁持って、それを打ち鳴らしながら世界の平和を求め歩くことを修行とした。また昔のアショカ王の故事に倣って、争いを止める平和の象徴として、お釈迦様の遺骨を祀る仏舎利塔を世界中に建立するのだそうだ。

その平和行脚のご修行、功徳により、自然とお寺も出来、仏舎利塔も現れるのだ、と。


しかしながらこの現実世界において、世界の平和を脅かす、その最も大きな脅威としてアメリカという国と、それに象徴される生き方に問題がある。

しかし、このアメリカという世界で最も強力で、建国以来常に武力を世界中に行使する国が、もし平和国家に変わることが出来るなら即ち世界も平和になるだろう。その為にどうするか?その鍵となり薬となるものが同じアメリカの中にある。

それが真のアメリカの住民であるインディアンの人たちだ。

彼らは500年に亘り、くにを奪われ殺戮されてきたにも関わらず、精神性の高い簡素な生き方をまだ失ってはいない。もし彼らインディアンの生き方がこの世界から消えるようなことになれば、世界も遠からず破滅するだろう。

その生き方にアメリカのみならず、我々は学ばなければならない。そしてその生き方を実践することで平和な世界が実現するだろう。しかし、そのインディアンの生き方を滅ぼそうとするこの度のアメリカの法案に対抗して、そんな彼らが自から起こした、この自らの生存をかけた" The Longest Walk "という非暴力の行進はアメリカという国に真の平和を打ち立てる、その最初の大きな一歩となるだろう。だから弟子であるあなたたちは、インディアンの人の後ろについて歩き、彼らを助け、彼らのためにいのちを棄てなさい!

そう日達上人は看破したのだそうだ。

純さんたちはお師匠様である日達上人から、こう命を受け、いのちをかけて歩きにきた、と言う。

島貫潤二上人は在家の頃、続く" The Long Walk for Survival "を歩き、純さんやニッパチさんたちに出会い、そして後に日達上人の亡くなった報に接したとき出家を決意したという。

ニッパチさんも出家から足は洗ったが、ビッグマウンテンには欠かさず通い続けた。

'88年のSACRED RUNでは最初から最後まで走り通し、日本各地でインディアンに間違われながらも多くの縁をつないだと聞く。そしてそれらの縁を翌年からビッグマウンテンのサンダンスにつなげ、日本から多くの人が毎年訪れる、そんなご縁をつくった人である。

'90年ぼくらもその縁がつながってビッグマウンテンを訪れることが出来たのだ。

また六カ所村に今は亡きホピのメッセンジャー、トーマス・バンヤッケや同じく今はいないシックスネーションのオノンダガのクランマザーだったアリス・パピーノやトム・ラブランクたちが来て国際ウランフォーラムを開催した時も駆けつけて、再処理工場予定地前で断食して祈っていた。そんな写真も当時のミニコミ誌に残っている。

ニッパチさんは、死ぬその最後まで団扇太鼓とサンダンスの道を貫き通した人だった。

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(ニッパチさんこと、日橋政男さん)

ぼくは、そんな純さんや潤二上人、ニッパチさんたちと出会い、インディアンの道に多くの導きをいただき、多くを学び、そして不肖ながらも今も尚、この道の末端を歩かせていただいていると思っている。

純さんは、こわいです(笑)。普段はアメリカにいるのに、いつぞや天空オーケストラの岡野くんたちとヒロシマ原爆の残り火を持ってイギリスのグラストンバレーフェスティバルに行くためにヒースローの空港着いたら、聞いたことある太鼓の音と共に、にっこり笑った純さんが立っていた。

こんな感じで、いつもこわいくらい完璧なタイミングでよく現れます(笑)。普段ぜんぜん連絡とかしてないのになあ、、、!

今回会う予定だったCandle Juneくんも911の後、グラウンド・ゼロ目指して行ったキャンドルオデッセイの旅の最後に純さんのお寺にたどり着いた。その映像を後で見せてもらって驚いたしね!

そんなJuneくんの代わり?に純さんが来た今回の神戸だったけど、一晩うちで泊まられて、久しぶりに朝のお務めをご一緒した。そして'88 Sacred Run の映像を一緒に観て、知らなかったエピソードを改めていっぱい聞くこともできた。


最後に2000年のビッグマウンテンのウォーク以降を少し振り返ってみたいと思うが、そ
の春より神戸元気村のバウさんが20世紀最後の年に原爆の火を世界中で灯し、次の世紀
を核のない平和な年にしようと呼びかけて、一人"火"を持ち歩き始めた。

そして秋、この時は純さんは来られていないが、偶然!? '90年一緒にカナダまで歩いたアベナキのトム・ドストゥが来日して、一緒に東京から広島まで原爆の残り火を持って歩くピースウォークをすることに繋がった。そして広島到着の後、有志で長崎まで歩く途中に上関原発計画を知り、この火と共にはじめてここを訪れ、長崎爆心地にてヒロシマの火と共に新しい世紀を迎えた。

2001年9月11日が起きた後、グラウンドゼロまで歩いた純さんは、今度は原爆ドームから911遺族のアメリカ人たちと一緒に奈良の桃尾の滝の仏舎利塔まで歩かれた。そして12月にはハワイにて、原爆の火を前に60周年と911が重なったパールハーバーを望み、ハワイのネイティブや日系の人、駆けつけたぼくら日本人とで平和を祈った。

そして、そのままこのは船に乗り、アメリカ大陸に渡った。

2002年明けてキング牧師の誕生日、純さんとトム・ドストゥ、シンゴたちは運ばれた原爆の残り火を掲げシアトルのチーフ・シアトルのお墓から、核に関するさまざまな場所を巡り、最終911グラウンド・ゼロまで巡礼した。ぼくらも最後駆けつけてグラウンド・ゼロでセレモニーをもち、そして久しぶりに純さんのお寺を訪問した。それから一緒にビッグマウンテンに向かい地元のナバホとホピの人たちと、この原爆の残り火を、大地に還すセレモニーを行った。

2003年から2004年にかけてはオーストラリアのウラン採掘場となったアボリジニの聖地から、シンゴたちと一緒に純さんは原爆の残り火持って歩き出した。そして日本に渡り六カ所村から原発現地を巡り、2004年夏至に世界中から先住民が集まって「せかいへいわと祈りの日(WPPD)」が富士山で開催された場所に、そして広島、長崎までWALKは続いた。

翌2005年の夏至にWPPDが始まった最初の場所サウスダコタのブラックヒルズで区切りとなるWPPDセレモニーに向けてウーンデッド・ニーから純さんたちは歩き、会場で断食し祈りを捧げた。

3年前の2007年は純さんはWalk 9で最終六カ所村にも行き、また広島から日達上人の生まれた阿蘇にあるお寺まで歩く途中に、祝島にも寄ってくれた。

そして一昨年は" The Longest Walk "30周年で再び行われた" The Longest Walk 2 "で、純さんは再びアメリカ大陸を歩いている。

去年はフランス、ドイツにまたがるライン川沿いを世界中から集まって来た人たちと両国を行ったり来たり歩いたと聞く。

・・・・インドやスリランカ、オーストラリアやヨーロッパはアウシュビッツからヒロシマまで歩き、アフリカも奴隷となって黒人たちが連れて来られた道を歩き、そしてアメリカ大陸”亀の島”はもう何度インディアンの人たちと共に歩いていることか、、、。


そんな純さんの夢は、アメリカからアラスカまで北上し歩いてベーリング海峡を越え、シベリアから南下してチベットそしてお釈迦様の生まれたインドまで、インディアンとアジアを結ぶ巡礼がしたい、と。そう昔、お寺で聞いたことがある。いまは温暖化の影響で北極圏の氷が溶けて難しい、って少し前には言われていたけどね。

でも、いつかきっと!純さんならやりそうだし、できたら一緒に歩いてみたい!


ここに書いたのはぼくが聞いたり、いっしょに関わらせてもらったことのほんの一部で、これ以上にもっともっと純さんは日々、歩いておられる。

そんな、いまも平和を歩き続けておられる純さんだが、今年は先ず3月から5月にかけてNY北部のカナダとの国境付近、ナイアガラの滝の辺りにあるセネカというインディアンのくにの、そこに造られた核の廃棄場から出発して、シックス・ネーションズを全て巡って、そこからNYマンハッタンの国連本部で開かれる核廃絶を願う核不拡散条約( NPT )再検討会議に向けて歩かれるらしい。


これには「ホピの予言」の宮田監督の娘のアヤちゃん始め、日本からも大学生たちが何人も参加する予定だそう。

あ〜、久しぶりに亀の島歩きたいな〜。

どうですか、みなさん、参加されませんか? 


でもこうやって純さんに会うと、はからずもスピリットに喝!を入れられる。


普段サボってる身としては、いや〜、ありがたいです!


またいつかご一緒に、三歩後ろにくっついて歩かせてください!


・・・マハトマ・ガンジーの塩の行進、沖縄の阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんが始めた乞食行進、インディアンたちのThe Longest Walk・・・、そんな草の根の民たちが、非暴力の力を信じ、祈りのひとつの現れとして自分自身を捧げ歩く。そんな精神的なウォークは、人と人をつなげ、メッセージをつなげ、分断された数々のエネルギーをつなぎあわせ、そしてまた次なるビジョンをつなげてゆく。

ぼくは自分自身そんなウォークの体験を通して、そう感じています。

ビッグマウンテンの人たちは、祈りの最後に必ずこう祈ります。

”今日も美の内を歩めますように!”

MAY WE ALL , WALK IN BEAUTY !

ナムミョウホウレンゲキョウ〜

合掌三拝

(どなたか純さんの映画つくったらいいと思うなあ〜!鎌仲監督に言ってみようかなー笑)

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*2000年ぼくらが歩いた" The Long Walk for Big Mountain " の記録映像が大重潤一郎監督の作品としてDVDになっています。ナレーションは亡くなる直前に山尾三省さんがつけてくれました。音楽、岡野弘幹with天空オーケストラ、内田ボブ他。純さんも映っています!
http://www.walkinbeauty.net/report2006dvd.html

*" The Long Walk for Big Mountain " 詳しくはレポートをご覧ください!
http://www.walkinbeauty.net/lwbm.html

*長野県の大鹿村に住む河本カズさんという人が、1978年のインディアンたちの行
進 " The Longest Walk "の最初の頃に参加したただ一人の日本人として、その貴重
な経験を自ら書いています。そのきっかけとなった日本山のことなども出てきます。
またカズさんは初めて日本にビッグマウンテンのことを伝えた人でもあり、そして
2000年の " The Long Walk for Big Mountain "の時の日本側のオーガナイザーとして
" The Longest Walk "で授かった最も大切なスピリットをぼくたちに伝えてくれまし
た。長い文章ですが、ぜひ呼んでみてください。ALL MY RELATIONS !
http://www.osk.janis.or.jp/~kazkawa/longestwalk1978.htm

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